高校を卒業するまでは競技スキーやサーフィンに夢中で、将来のことはあまり真剣に考えていませんでした。
私の母は、元々大阪で200年以上前に開業した赤壁鍼灸院の6代目として、多くの患者さんを診ていました。「あなたは生まれる前から、患者さんの脈をとっていたのよ」と母はよく言いますが、私は鍼灸師のお腹の中で命を授かり、まさに艾が燃える匂いの中で育ったのです。
両親は私の将来を案じて、親元(東京)を離れて大阪の鍼灸院で見習いをしながら、鍼灸学校に通うことを強く勧めました。代々続いている鍼灸院の家業を続けてほしいという気持ちもあったとは思います。私は大学に進学したいという気持ちもありましたが、その意見に従いました。
18歳から鍼灸院に徒弟奉公に入り、月曜日から土曜日まで朝と夜は住み込みの治療所で働きつつ、学校に通うという生活が続きました。今思い起こしても、これまでの人生でこんなにつらかった時期は、他にありません。高校まで一緒に遊んでいた友達が、華やかな大学生活を謳歌しているのを横目で見ながら、羨ましくてたまりませんでした。
自分がまるで籠の中の鳥のように思えて、何度も逃げ出そうと考えたものです。それでも、最後の最後でなんとか踏みとどまりました。意を決して、生まれて初めて頭を丸め、鍼灸師免許を取得するまでやり抜いたのです。
21歳で鍼灸師の免許を取ったものの、すぐにその道を歩み始めたいという気にはなれませんでした。当時は、鍼灸師としての仕事への興味よりも、大好きなサーフィンでプロになりたいという気持ちが強くあり、自分自身を試してみたかったのです。
そのために千葉県勝浦市に移り住み、プロサーファーを目指して10カ月間、数々の大会に出場して優秀な成績を残しました。しかし、プロサーファーとして、将来、日本で生活することを考えると限界を感じずにはいられませんでした。
そして、私の夢はハワイに合法的に移住して、サーフィンと仕事を両立するライフスタイルを築くことに膨らんでいきました。そのために、まずはアメリカに渡り、大学でホテル経営の勉強をしようと考えました。
ハワイでホテルマンとして働ければ、生涯で他の日本人サーファーの誰よりも、たくさんいい波に乗れると思ったのです。
大学に通うためにカリフォルニア州サンフランシスコ郊外に引っ越してきたのは、22歳の時でした。それから3年間、アルバイトをしながら大学に通いました。もちろんサーフィンはライフスタイルの一部でしたが、慣れない英語での勉強も懸命に取り組みました。
日本で苦しみながら鍼灸を学んだ時期あったからこそ、「自分は勉強をしたいからここにいるのだ」という気持ちを、明確に持つことができたのだと思います。
その間、知人や友人に頼まれて鍼をすることもありました。自分としては臨時のアルバイトのような感覚だったのですが、周りに日本人の鍼灸師がいなかったこともあってか、予想以上に重宝がられました。また、鍼灸のことをよく知らないアメリカ人たちは、その効能に驚きつつ、私の技能に敬意を示してくれました。人に喜んでもらえるのが率直にうれしくて、再び鍼灸への興味が湧いてきました。しかし、3年間私なりに真剣に取り組んできたホテル経営の勉強が水の泡になってしまうことを考えると、鍼灸師として身を立てるという決断は簡単には下せませんでした。
悩みに悩んだ末、最終的にカリフォルニアで再び鍼灸の勉強を始めることにしたのは、鍼灸師として自立することで、自由なライフスタイルを獲得できると思い描くことができたからです。ホテルマンになったとしても、仕事を始めれば組織の中で働くことになる。それよりも、患者さんたちに喜んでもらえることを肌で感じながら日々の暮らしを送ることの方が、自分に合っているのではないかと考えたのです。
また、日本を離れて初めて移り住んだ北カリフォルニアの風土やそこで出会った人々に、愛着を感じていたこともあります。
ここは1年中温暖で雨が少なく、理想的な気候です。サンフランシスコやシリコンバレーといった大都市に近く、それでいて海や山など自然へのアクセスもいい。
私はアルバイトをしながら現地の鍼灸学校に通い、週末はリフレッシュのためにサーフボードを持って海に行きました。また、心身を鍛えるために本格的に空手を始めたのもこの頃です。忙しかったけれど、充実した毎日でした。渡米する以前から漠然と思い描いていた豊かなライフスタイルの雛形を、この頃のカリフォルニアでの生活に発見していたのかもしれません。
「カリフォルニアで鍼灸師の免許を取得する」という目標を立てたものの、その実現は容易なものではありませんでした。日本とアメリカの鍼灸の違い、アメリカの鍼灸師試験対策、学生ビザで滞在できるのが1年間というプレッシャー。私は再び頭を丸めて一念発起し、猛烈に勉強しました。
1988年にアメリカで鍼灸師免許を取り、翌年カリフォルニア州の免許を取得。29歳で開業しました。
開業する際にも、産みの苦しみがありました。鍼灸師の資格を取ったものの、就労ビザを取得するのは、簡単ではありませんでした。カリフォルニアで滞在許可を得たるために弁護士に掛け合い、協力者を求めて奔走しなければなりませんでした。しかし、それも目標を達成するためのステップだと思い、ひとつひとつ問題をクリアしていきました。
開業した治療院は、”Holistic Health Center”と名づけました。
この”Holistic”という言葉は、「全体の、総体的な」という意味があります。一部の疾患だけを診るのではなく、総体的に体調を診断するという東洋医学の思想を反映していることはもちろんですが、それだけではありません。仕事だけではなく、遊びや家族や周りの人々との関わりなども含めて、総体的にバランスのとれた人間でありたいという私の人生観が、そこには込められているのです。
サーフィン、武道、そして東洋医学。この3つのことに30年間、プロの意識を持って力を注いできました。そして、武道やサーフィンで学んだ知識や経験は、東洋医学にも生かされてきたことを、今になって実感しています。
サーファーとしての私が目指す山は、“マーヴェリックス”という世界最高峰のサーフィンです。その巨大な波を追い求めて、世界中から屈指のサーファーたちがカリフォルニアに集まって来ます。50歳を過ぎた今でも、私はこの大波に挑み、日本人サーファーの代表として、若い時から憧れていたプロのビッグウェーブ・サーファーとして情熱を注いでいます。
鍼灸では日本の伝統的な経絡治療について更に知識と経験を深め、アメリカで普及することに貢献していきたいと考えています。
22歳で渡米して以来、恩師や家族、従業員、友達など多くの人に支えられ、ここカリフォルニアの地で少しずつ自分なりのライフスタイルを築くことができました。
人生を謳歌しているからこそ、心も体も健康で生き生きとした状態を保つことができるのです。そして、自らが健康で気が動いているからこそ、患者さんを治癒に導くことができるのではないでしょうか。
アメリカの日本人鍼灸師の草分けとして日米双方に貢献できるように、80歳まで現役で仕事を続けたいと考えています。
(医道の日本2009年11月号「ESSAY邂逅」を改変)